InTo

筆者が興味を持った事を無差別に紹介していこうと思います。

知るという事の楽しみ

ブログ4記事目でございます。

Amazonアソシエイトさんからのお祈りメールが来た私ですが、アクセス解析Googleアナリティクスさんは難なく導入できました。

いやー、なんとなく数字見てると面白いですね。現状の当ブログの平均セッション時間が50秒でございました(笑)

"キヨタはまたワケわかんねー事グダグダ書いてるなー。"
"本人は元気そうだしまぁいいか。(ブラウザ閉じる)"

というような流れが容易に想像ついているわけですが、僕としてはそれでも十分嬉しいので全く気にしていません(笑)

直接お会いした方は是非率直なご感想をいただけると嬉しいです。

今日も自由に自分のスタンスで書いていこうと思います。
前の3記事よりは多少楽しんでいただけるのではないかと。

興味は広ければ広いほど良い

いきなりすぎますね。
はい、良くわかっていますよ(笑)

僕としても流れが上手く整理できていないお話を書こうと今日決めてしまったので、少々戸惑いながらこの記事を書いております。

前置きは良いからはよ話せという事ですね、はい。

僕の人生の楽しみ方として、基本的に自分の興味には素直に何でも手を出してみるというのが趣味趣向であります。

親の育て方が良かった(?)のか、僕が親の言うことを自然にスルーして勝手に育って行ったのかは良くわかりませんが、僕の人生は自分の興味のままふらりふらりと色々なものに手を出しては辞めての繰り返し。楽しいものだけ今の自分に残して他のものは「あ、これ俺には合わなかったんだな(ポイッ)」と放り投げて、また別のものに手を出す感じで生きてきました。

もうとにかく自分の興味があることばっかしてきて生きてきたと言っても過言ではないです。

今までどんな事をしてきたかというと、、、

  • ピアノ (5~7歳、猫ふんじゃった以外に興味が湧かず引退)
  • 剣道 (6~7歳、少年剣士8級にて打たれた小手が痛すぎて引退)
  • 水泳 (8~9歳、クロールが平泳ぎより遅くて引退)
  • 理科<物理> (10歳~現在、塾でNewtonを読み始めてから楽しすぎて現在も継続中)
  • 電気 (11歳~現在、半田ゴテを親にねだって以来現在も継続中)
  • バドミントン (13歳、筋トレが辛すぎて引退)
  • 数学 (13歳~現在、数式が導き出す世界が美しすぎて現在も継続中)
  • プログラミング (15歳~現在?、あくまでツールとして仕事でも使うので現在も継続中)
  • コーヒー (17歳~現在、なんだか大人になった気分で薫りが芳醇すぎて現在も継続中)
  • ゴルフ (17歳、打ちっ放しに行ったらいきなりフックして引退)
  • 酒 (20歳????~現在、むしろ飲んでなくても既に酔ってるキャラなので現在も継続中)
  • 音楽 (21歳~現在、70's Funk/Soulを聴き始めてからノリノリすぎて現在も継続中!?)
  • ビリヤード (22歳~現在、奥が深すぎて生涯スポーツ感ハンパないので現在も継続中)
  • 服へのこだわり (24歳~現在、友人に全否定されて以来スタイルを変えて現在も継続中)

いや~、振り返ると色々な事をしてきました。
やっぱりやってみる事で自分との相性が分かるところもありまして、臆せず手を出してみる事は大切なんだなぁと人生を通して感じてきたと思っています。

興味を頭で否定しなくなったキッカケ

ずーっと生きてきて尽きない興味に関して人との距離感を感じる事もあったりしましたが、最近では大変ポジティブに自分の性格と向き合うことができるようになってきました。何がキッカケなのかなぁと自分で振り反ってみたんですが、おそらく修士1年生の頃に受けた授業のせいなのではないかと思っています。ただ話を聞いてレポートを書くという授業だったんですが、ソニーコンピューターサイエンスラボラトリ(CSL)の人が入れ替わり立ち代わり話をしてくれた事にレポートを書くというだけの緩い授業でした。

その中で茂木健一郎さんが登壇された回がありまして、話の中で"Sense of Wonder"というキーワードが出てきました。根拠の無い自信を持ってつき進める奴は強いとか他にも色々と刺激的な話をしてくれたわけですが、一番心に残ったのはこの"Sense of Wonder"というキーワードです。実はブログのタイトルにもしようかと悩んだ言葉でもあるのですが、僕が使うには少々おこがましい言葉に感じて別の軸でブログのタイトルを決めました。

Wikiで調べてみると下記のような説明が出てきます。

"センス・オブ・ワンダー(sense of wonder)とは、一定の対象(SF作品、自然等)に触れることで受ける、ある種の不思議な感動、または不思議な心理的感覚を表現する概念であり、それを言い表すための言葉である。"

茂木さんが使っていた意味はやや違っていたと僕は理解していて、「子供の頃に不思議に感じたあの感覚」というような用法だったと思っています。"Sense of Wonder"を持っている奴は強い、という言葉を聴いたときに「あ、このままで良いんだな」と非常に気楽な気分になれた事を今でも覚えています。

茂木さんの講演のあと、十数人の学生がワラワラと行動の前に集まっていたので僕もなんとなくその場に行ってみて話を静かに聞いていました。
授業を主催していたCSLの所さんから「君は何を研究しているの?」と聞かれ、「半導体の研究をしています」と答えたら「そんな事やってないでもっと面白い事やんなよ」と言われたのを覚えています(笑)

授業のアフタートークが終わった後に喫煙所で一服していたら、さっきワラワラしてた中にいた学生を発見して声を掛けてみたりしまして、それが今でもたまに飲んだりしている某C君だったりします。
結局そのC君に誘われて日吉での茂木さんの飲会に急遽突入して、あぐらをかいた状態で酒飲みながら茂木さんと話してみたりしたのはなかなか面白い体験でした。

ちなみに、僕としては茂木さんが発信されている各論には賛成する部分もあり、否定する部分もあるので妄信するつもりは毛頭ありません。人によって意見は様々だし、そうであってしかるべきだと思っています。

自分の考え方に影響を与えてくれた人、という意味では今でも尊敬はしています。

無知の知

もう一つ、僕の興味を促進してくれる言葉として"無知の知"という言葉があります。
どうやらソクラテスが言い始めた言葉のようなのですが、僕の中でも今でも色濃くその思想は影響していると思っています。

同様にWikiでの説明を張り付けてみます。

"他人の無知を指摘することは簡単であるが、言うまでもなく人間は世界のすべてを知ることはできない。ギリシアの哲学者ソクラテスは当時、知恵者と評判の人物との対話を通して、自分の知識が完全ではないことに気がついている、言い換えれば無知であることを知っている点において、知恵者と自認する相手よりわずかに優れていると考えた。また知らないことを知っていると考えるよりも、知らないことは知らないと考えるほうが優れている、とも考えた。
なお、論語にも「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」という類似した言及がある。"

いや、これ本当にすごい言葉だと僕は思っているんですよ。

ちょっと脱線しますが、自分のホームのお店でビリヤードの大会があるときに出場者の優勝予測をする「馬」という競馬的なお遊びをする習慣があるのですが、僕の馬名は「シッタカプリンス」です。 ビリヤードを初めて2年ぐらい経ったときになんでも物理で解決しようというスタンスになってしまった時期があって、「あー、それ知ってるわ」とか無駄に口走ってしまう症候群が発症していた痛い時期がありました(笑) そんな事もあって「シッタカプリンス」として華々しくデビューを果たしたわけなんですが、昨年末のトーナメントでの馬名もいまだに使われているのである意味愛着のある馬名であります。

何の話してんだお前はという皆さんがほとんどだと思いますが、その当時僕は「自分が理解できていないことが理解できていない」状況だったんだなと今解釈しているんですよね。何故そういうことに至ったかというのが"無知の知"という言葉との出会いでした。

あー、俺は自分自身が分かってないという事を良く分かってなかったんだな、と。

「もう何言ってんだかわかんねーよ」とも思うかもしれませんが、物事をちゃんと理解していない人ほど謎の自信を持っていて頑として譲らない態度を取ったりするんですよ。僕としては自己主張をしたかったから曲げなかったわけではなかったわけではなくて、分かって無い事が分かって無かったから「俺は分かってる」と勘違いしてたんだなと今では思えるわけです。

特に何かを学ぼうという意欲が出るときには、まず「あ、俺こういう事分かってないんだな」と自分が無知であることをいったん認める必要があると思うんですよね。いったん自分でそう認めることで、素直に学びに対する意欲を肯定できる所があるのではないかと考えています。

仕事上で「電気系技術者として"本来は"知っていてしかるべき事」を僕が知らない事がちょいちょい出てくるんですが、そういうときに「あ、俺分かってねーな」と思うと素直に有識者に質問して教えを乞う事ができるようになったんです。だって分かってないんだから、分かるようになれたほうがいいじゃない。シンプルなんだけど、結構こういうところにプライドがあって動き出せない日本人は多いと思うんですよ。だから余計に大事だと思っています。

知ると何が楽しいのか

そう、ようやく本題なんですが、知るという事の楽しみについて。
正直僕が書きたかったのはここまでで書いた過程なのでこの章の内容は非常に薄い事だと理解した上でちょろっと結びを書きます。

知るという事の楽しみは基本的には「自己満足」なんだろうなと思っています。

あいつより俺の方がこんな事知ってるぞ、とかそういう優越感に近いアホくさい衝動が楽しさにつながっているんじゃないかなと自分でも思います。

でもね、色々やってきた上で感じるのは「ただ知ってるだけではだめ」だということなんです。
「知ってる」って色々なレベルがあって、①知識として知ってる、②やった事がある、③俺は山ほどやってきた、④その世界では神と呼ばれている、ぐらいのランクがあると思うんですよ。

せめて一回やってみた事で「知っている」と言える事が大事だと思っていて、自分の経験の浅さ深さと実体験における所感や感想を人に伝えることができて初めて「知っている」と口走る事ができるようになると思うんです。そうでないと薄っぺらい「シッタカプリンス」になってしまうだろうなと自戒を含めて思っています。

経験を含めて人に「知っている事」を話せるようになると、ぐっと面白い話ができるようになります。
なにより自分の失敗談やリアルな重みを人に伝える事ができるようになるからです。

そういう話ができるようになると人からの食い付き具合が大きく変わってきて、「あ、こいつ面白いやつだな」と思ってもらえるんだろうなと僕自身は感じているんですよね。

はい、そろそろ遅くなってきたので今日はここら辺で幕を下ろしたいと思います。
皆さま楽しい週末を。

#僕は金曜日は出勤です。